ヒプノセラピー(前世療法)体験
2014年9月 八ヶ岳
常世ゆかり先生による過去世への誘導
初めて常世先生のセラピーを受けたのは2008年。
今までに2つの過去世旅行を体験させて頂きました。
3度目となる今回のセラピーでは、自分の制作理由の核心に触れた、忘れがたい体験となりました。
“前世セラピー”と聞くと、霊視のように「あなたの前世は○○でしたよ」と誘導者が教えてくださるものと思っている人も多いかもしれませんが、私が受けたセラピーは、そうではありません。
常世先生は時間をかけてゆっくりと記憶を後退へと導き、根気強く伴走してくださるのです。私は自分で見てきたものを自分の口から発し、先生へ伝えていきます。
1回目のセラピーのときから割とすんなり過去世へ行くことができた経験から言うと、記憶の後退のコツは、直感を信じて妄想を突っ走っていくと、とんでもないものが見え、まさに人生のつじつまが合い「腑に落ちる」という感じでしょうか。
2011年7月。
私は3ヶ月のイタリア滞在を終え帰国したのですが、魂の半分をローマに置いてきてしまったような精神状態で過ごしていました。(その状況はこちら→イタリアでの不思議な体験)
いままでの人生で肉親との死別や離別を経験していますが、それとは違う感覚なのです。
過去2回の前世セラピー経験があるので、抵抗なくまたセラピーを受けることができたら、この訳のわからない苦しみが和らいだと思うのですが、当時はどうしても、受ける勇気が出ませんでした。
たぶんそれは、いま、その苦しみの理由を知るべき時期ではないと感じ取っていたのか、または制作していく人生のなかでみずから見つけ出すことが課題なのか、どちらかなのだろうと解釈していました。
しかし、あまりにもつらい毎日で呼吸困難に陥ることも出てきてしまいました。
先生には出来事の詳細はお伝えせず、抽象的な説明で助けを求めました。
「遺跡で聞いてしまった声がある。つらくてたまらない。」と。
すると先生は、その時代、その場所で育っていた植物に触れることで感情の苦しさを植物が共有してくれる、ということを教えてくださいました。
植物を育てたことなどない私は初めて園芸店へ行きアキレス(西洋ノコギリソウ)の育て方を習い、最初はりっぱな鉢植えだったのに、ものすごい勢いで枯れてしまったアキレスを抱きしめ(笑)、辛い日々をやり過ごすことができました。
心の整理に3年を要しました。
そして2014年
晴れてセラピーを受けようと思った理由は、この3年、自分で理解しようと努力したけど、どうしてもわからなくて、でもどうしても知りたいことがあったからです。
それは、
「到着するから!」という切実な言葉は、私が発したのか?(つまり誰かを待たせていた)
それとも、誰かに言われたのか?(つまり誰かを待っていた)
どっちなのだろう。
そして、何があったのだろう?
という疑問です。
その切実さだけが、苦しみとしてわたしの魂に突き刺さっていたからです。私は、どこかの過去世で(過去世というのは、いくつもあるように思います)ずっと誰かの帰りを待っていたのか?それとも、待たせていたのか?
ローマのあの場所で。
セラピーを受ける前の予想では戦争から戻らない恋人を待ち続ける、または待たせ続ける光景なのでは・・・と。(映画などで見たことあるシーンの影響でしょうか)
しかし、私がヒプノセラピーで見てきたものは想像もしていない出来事でした。
つらい古代の記憶がよみがえった。
~先生と共に旅をした時代は、紀元前~
セラピーのスタート地点はいつものように、小学生の頃の自分まで記憶を後退させ、幸せだった土曜日午後の家族団らんの光景を左手に握り締めさせてもらい現世の記憶は終了となる。
そしていっきに、今回知りたい過去世へ飛ぶ。時代や場所はすぐにはわからないが自分の性別はわかる。前世セラピー中に見る光景は人によっていくつかの見え方があるらしい。映画のように自分を客観視するパターンや後頭部あたりから自分を見ているパターンなど。私の場合は毎回すっぽりと自分の体に入ってしまうので自身の容姿全体は幽体離脱をしない限り見ることができない。でも手足は見れるので違和感のある我が手足をまじまじと眺め体をさわり髪をなでる。これが過去へたどりついたときにする恒例作業となっている。(笑)
またしても男性か(笑)いったい私は女性だった過去はあるのだろうか。うう、ごっつい男性。現世での私の手足がやたらごっついのは過去世の名残なのだろうか。。。etc。。。
目を閉じたセラピー中でも雑念はあれこれ浮かぶ。
初めてのセラピーのときは、私は過去世の死の瞬間からのスタートだったので時代を遡ったり飛んだりした。2回目は幼少期からスタートだったので普通に、順序どおり人生を見て来れた。
はたして今回はどんな場面から始まるのだろう・・・。
私はベージュの布をかぶっただけのようなワンピースを着ている。20代後半くらい。本来の目的ではない仕事をさせられているようだ。本来の仕事とは、採石場から運び出された石が集まる作業所で、表面を平らに処理された石に文字を刻むための器具を設計すること。でもいまは毎日兵器開発をさせられている。
幾度も試作が失敗したことで、一緒に作業したチームメイトが役人に拷問されている。たしかにその失敗は、そのチームメイトのミスによるものだったが、二度とこんな目にあわないように、私は全部の工程を自分がやろうと決意した。来る日も来る日も兵器の開発をしている。うまく作れた器具は他国の人々を殺すためのもの。自分の国はとても小さな国。既に命運は尽きているように感じていた。
侵略されるのは時間の問題。国の命運には興味がないが、人が殺されることが怖くてならなかった。そして、間接的に人を殺していることが耐え難たかった。
私には家族はいなかったようだ。生い立ちもわからない。
もしもこの過去世がいまのわたしにとって、伝えたい大事な部分が生い立ちに関わっていることならば、不思議と幼少期の光景が見えるものなのだ。先生が、いま必要なメッセージのある場面へ誘導してくださるからだ。
家族を持たない身軽な私は、すべての工程作業を引き受けようと必死になる。その最中、仲間の小さな失敗が発覚、役人を怒らせる。
犠牲になったのは、失敗した仲間のフィアンセだった。
処刑台に引きずられた彼女はすでにぐったりとしており、自力では立てない状態だった。(あまりに残虐な場面で、ここでは書くことができないが、セラピー中も吐き気をもよおし、一旦休憩する)
セラピーは、自分の意思で見たいものをみればいいし、怖くて嫌な場面は避ければいいのだ。でも私には必要な場面だと思ったので、見てしまった。
お盆に放映される怪奇現象TV番組みたいに、怖いもの見たさに見てしまい、あとでひとりでトイレに行けなくなる程度の感情とは比べ物にならない恐怖だった。恐怖というよりも悲しみの感情だったか。胸が押しつぶれてしまう、という恐怖。人間はこれほどの悲しみを背負う生き物なのか、という恐怖。
どうやったって私には耐えられない。
仲間を助けることもできず、私がとった行動は単身逃げることだった。小さな舟で海へ出た。どこでも良かった。死んでも良かった。漕ぎ疲れて死ねるものなら死んでしまいたかった。
しかし私は生きてイタリアの地にたどり着く。
海岸についた時の記憶がないが、親切な浅黒い肌の女性に拾われ食事を与えられ、命が助かったようだ。その女性とはどこか?にぎやかな街で長く一緒に暮らすことになる。
その街は私だけが異邦人というわけではなく怪しい目で見られることもなかったが、国名と言語はかくさなければ命の危険がある状態だった。無言のまま金属を運ぶ仕事をした。話せないふりをし、必要なことは女性が助けてくれた。
若かった私も40歳になった。イタリアに来てからは自分の臆病さを責めながら静かに人生を送っていたようだ。
笑ったことはなかった。
ある日、捨てた祖国が滅びたことを知る。いよいよこの日が来たかという覚悟の気持ちと同時に、あることが頭をよぎった。
それは、生き残っていた祖国の仲間が奴隷として送られてくるのではないか、ということ。その思いが頭に浮かんだ瞬間から、私はローマの奴隷市場へ行くことしか考えられなくなった。いてもたってもいられず、取るものも取り合えずローマへ向った。長く住んだ町から川でローマへ行ける。同棲の女性が止めるのもきかず、舟を漕いでローマへ向った。自分がローマに着いたからといって奴隷となった仲間のひとりでも助けられるわけではないのに、とにかく私は仲間を助ける手段を探りたかった。
腕がちぎれるほど舟を漕ぎまくった。
(セラピー中も汗が吹き出て息がハアハア激しくなった)
お願いだ。
もう、着くから、どうか待ってて。
もう、着くから。到着するから!
その必死さが凄まじく、いまでもセラピー中の切迫感が鮮明によみがえる。
ローマに着いてから、また同じような金属を運ぶ仕事をした。
後にフォロロマーノとなるローマの中心街へ毎日出かけた。奴隷が売られているところをくまなく回った。毎日、仲間が売られていない確認をすることが日課だった。
数年が過ぎた頃、以前住んでいた街に置いてきた女性がローマへ来る。仕事が限られていたおかげで私を探しあてることができたようだ。無事再会することができ、また一緒に暮らし始めた。彼女とはこのまま生涯を共に暮らした。(といっても、まもなく私は死を迎えたのだが。)
ある日彼女と買い物をしていると、私はある壺に目が釘付けとなる。その壺に描いてある絵を見た瞬間、祖国の風景であることがわかったからだ。私の祖国、場所はアドリア海か地中海の小さな島みたいな感じ。(セラピーの中で先生が私に国名を尋ね、それに対して私はシーバとかシーバルとかそのような発音をしていた)その祖国の者なら誰でも心のふるさとだと感じる岸壁の神殿と真紅の花。そして夕日の角度。必ずそれは祖国の者が描いた絵だ。壺の前で涙がポロポロ流れた。妻が気を利かせて私をひっぱり連れ帰ってくれた。あそこで怪しまれてはいけなかったはずだ。
その日、あの壺の絵を見たことで、私はものすごく嬉しい悲しみを覚える。悲しみにも種類があるのだと、知る。恐怖の悲しみと嬉しい悲しみ。人間とは気持ちひとつで、人生の色が変るのか。あの壺絵を見てから、誰かひとりでも仲間が生き残ってこのローマのどこかにいるのだと、そう感じるだけで、どれだけ私の心が喜んだか言葉で例えようもなかったが、妻は静かに微笑んでくれていた。この人はなんと優しい女性なのだろう。
その日をさかいに私は、残りの人生でやるべきことを見つけた。それは生き残った祖国の者がどこかでひっそりと小さな喜びを感じることが出来る、なにかを伝えることだ。私が壺絵からもらった生きる喜びを、誰かにも分けてあげたかった。それがたとえたった一人であっても、元気付けることが出来るなら、自分がここに生き残った意味があるのだと思った。
何をしたらいいのだろうか・・・。毎日仕事をしながら考えた。少しの時間があれば奴隷売買の確認をする生活だったから、あまり時間はなかった。仕事をせず、ずーっと奴隷の確認がしたかった。1分1秒でも長く奴隷を探す時間にあてたかった。
そんな生活の中で妻と考えた案は、どこかに祖国の失われた言葉を暗号化して刻むことだった。
何に刻んだらいいだろう。刻むことは得意だし、器具も作れる。でも、いったい何に刻もう?
ローマには失敗した石碑や壊れた石像の土台などが無造作に転がっていた。もちろん持ち主にばれたら罪になるが、こっそり持ち帰ってもわからないものもある。私はある石造の割れた土台を入手する。セラピーでは「偉大な政治家の母親の石像が立っていた」土台ではないかと言った。その、半分壊れた土台の側面に、私は祖国の文字を逆さにし、さらに鏡文字にして彫ったのだ。
岸壁に建つ我がふるさとの神殿 かがむと夕日はどこに見えるのか。私たちと真紅の花だけは知っている。というような言葉を彫ることができた。これを読んだら間違いなく祖国の人間が彫ったのだとわかるのだそうだ。(もうちょっとかっこいい詩は書けなかったのだろうか自分:笑)
私にとって、それは偉業だった。やり終えた感があった。
あとは1秒でも多く奴隷さがしの時間にあてるだけ。生き残った仲間に会うことができず毎日辛かったが、辛ければ辛いほど、妻が愛おしかった。正直あまり恋愛感情はなかったのだが、親切にしてくれた妻に対し、自分ができる最大限の優しさを与えて恩返しをすることが大事だと感じていた。妻には優しくできた人生だったと思う。
作品 PAESTUM (中嶋しい 2012年作)
私は結局、
生涯、祖国の生き残った仲間のひとりにも会うことができなかった。。。
享年46歳。仕事場で事故に遭い即死した。頭に金属がぶつかったようだ。死んだ瞬間、私は体から魂を吹き飛ばした。一目散に、ローマの中心街へ飛んでいった。それはもう、待ってましたとばかりの勢いだった。ああ、これでずーっと奴隷売買の監視ができるのだ、と安堵した。私の魂は空から中心街を見下ろしている。時代は、自分の発言によれば紀元前200年頃だそうだ。私はずっとここに魂を留めて仲間を見守るんだ、と誓っている。
おそらく、この過去世のあとも、いくつかの人生でも私はここに魂を留めたのではないだろうかと推測する。だからこそ、セプティミウス凱旋門の上方からの眺めを知っていたのだろう。(凱旋門の建造は西暦200年過ぎなので)
ずーっと中心街の上空にいたかった。
もし仲間が売られていたら、いまの自分ならなにかできるかもしれない、という霊感を感じていた。仲間を助けたかった。
しかし先生が、留まることを引きとめた。
「いったん、体にもどってあげようね。いままでありがとう、って言ってあげよう」
本心では、自分の体など興味がなかった。ずーっと上空にいたかったんだ。情けない自分の人生なんかより、仲間を見守るほうが大事だと思った。でも、先生の言葉に従い、事故にあって頭から血を流して倒れている自分に会いにもどった。
上空から自分の死体を眺め、涙がこぼれた。
ありがとう。
アルバと名乗る過去の自分は、フォロロマーノの上空にしばらくは留まったんだと思う。その後また次の人生を迎える準備にあの世へ戻ったんじゃないかな。。。
しばらく泣いて落ち着いたころ先生は、「祖国の仲間に会えた?」と聞いた。
自分の発言がとても不思議だった。
「ううん。仲間は、今の私の一部でもあるし、害を与えた敵の一部でもあるの。みんな同じなんだ。ひとつなんだ。何度も生まれ変わって混ざって、みんな元は同じなのに、どうして憎しみ合うのかわからないけど、いまは一つに溶け合ってる。敵も味方もないんだ。」
誰の発言だよ、、、という感覚を覚えながら中嶋は語る(笑)
このときの感覚はしばらくずーっと残っていてセラピーが終わって東京に帰ってきてからも何ヶ月も、だれかれ構わず祖国の同士に思え、嫌いだった人まで抱きしめたくなるような危ない人になっていた。
私は2011年のイタリア滞在中、イタリアに残るギリシャ遺跡に特化して取材していた。なんでギリシャ本土じゃなくイタリアにあるギリシャ遺跡なの?とたずねられても答えがわからなかったが、これで腑に落ちた。そしてなによりも、なぜ碑文をモチーフに制作をしてきたのかも。
こんな答えを、私は到底想定することはできなかった。
いままで何度も聞かれた。なんで碑文をモチーフにしてるのか?
「いまの自分の表現に必要だから」としか答えられずにいた頃もあるが、近年は考古学が好きだから、と答えている。
でも実はね、
古代に仕上げられなかった祖国のメモリアルを作ってるんです!(笑)
同志にしかわからない暗号文字を埋め込んでるのよ。
(いつかギャラリートークで言ってみたいですww)
最後に、先生の優しいコメントでしめくくりたいと思います。
とても勇気をいただけた言葉です。制作に苦しむときは思い出して頑張っています。
しいさん
先日はお疲れさまでした。本当に遠い遠い時空を旅してきましたね。愛に満ちていると感じられているのは、しいさんがその出来事を心の奥深くで受け入れていることと、古代のしいさんが現在のしいさんに当時の気持ちや歴史を伝えることができた、その幸せを感じているからではないかと思います。他にも言葉にはできないような深い要因も流れているとは思いますが・・・。
古代のしいさんが伝えてくれたメッセージがあまりにも大きく深く衝撃的なため、咀嚼するにはいつもより時間がかかると思いますが、ある日気付くと、いつのまにかご自分の心身に浸透しきっていると思います。そうしたら、しいさんは、古代人と現代人の4つの目とふたつの心をもって表現ができる作家さんになっているはずです。
それまでは、2000年の時差ぼけ(タイトルが秀逸!! 笑)に浸ってください。こう言っては何ですが、あとでとても懐かしく思い返せるような、めったにない時差ぼけの渦中にしいさんはいるのです(^^)
常世ゆかり